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2004-02-26 [長年日記]

魂のリレー

ハナイ氏の父上が亡くなったらしい。

こういうとき何か言ってあげたいのだけれども、なんて言えばいいのかよく分から
ない。ご愁傷様、というのは最近の用法ではもっと軽いニュアンスな気もするし、
お気の毒様、というのもなにか違う。普段軽口ばかり叩いているので、難しい。ま
あ本人もそんな言葉は望んでいないだろうと思うので、定型句は省略させてもらう
かわりに、いつもより少し長めの文章を書くことにする。

その人の記憶が、生きている人の心の中に
ある間はその人は生きている。
みんなの心の中からその記憶が消え去って
しまったときに初めて、その人はこの世から
消えてしまうのだ

という話については思うところがある。
ワタシがいつも思うのは、墓標や祭祀というものはリマインダとして価値がある、
ということだ。
鎮魂とか供養とかいう言葉はどうもしっくりこないのだが、亡くな
った人の魂は接した人々の記憶の中に宿ると考えれば、
その人の記憶を定期的に思い出させる、リマインダとしての墓標や祭祀というシステム
については、誰が考えついたのかしらないが良くできている、と感心する。また、
感心する一方で、穿ちすぎかもしれないが、人間の記憶というものへの不信感が感
じられるし、もっと穿つとその不信感を商売に転化したと見なすこともできる。素直に考えると、我々は故人の魂=記憶をリレーしているのだ。卒塔婆がバトンだというのはちょっと不謹慎か。

さて、たしかに、人の存在を情報としてとらえると、直接的に接した記憶を共有できなくなった時点
で、人の存在は消えて無くなってしまう。そういう観点では、自分が生まれる前に
死んだ爺さんの墓参りは無意味なのかもしれない。間接的に語られる言葉(「あん
たのお爺さんが戦争で..」)が伝えられる記憶は少ないし偏っている。記憶を長く
残そうとするのであれば、小説や随筆で、あるいは学術的な功績で、その名と生き
様を残すことができる。しかし、「フツーの人」は「知ってるつもり?」に取り上
げて貰えることはなく、情報や記憶だけで語ってしまうと、平凡な人の平凡な人生
は数世代で消えていってしまう。

しかし、引っかかるのは、人生を共有するということは情報を共有すること以上の
要素がまだある、ということだ。普段の軽口や馬鹿な話が伝えるものは、明ら
かにその内容そのものではない。話の内容はむしろ媒介であって、伝わったり残っ
たりするものはそれ以外のものだ。人を亡くして感じる喪失感というのも、情報に
たいしてだけ感じているわけではないはずだ。この喪失感は、たとえば亡くなった
好きな小説の作家に対するものとは違うはずだと思う(いや、その辺は人によりけ
りかな。例:尾崎豊の死)。なんだか愛とかそういったものに関係することなのだ
ろうと思うのだが、愛という言葉だけで片づけるとどうもしっくりこない。「関連
性」とか「連帯感」とか「安心感」とか、うーんどれもしっくりこないのだが、そ
ういうものに対する喪失感なのだと思う。むしろこういう、直接的な記憶以外のも
のがあるからこそ、したしい人間の死が特別なものであるのではなかろうか。

亡くなった人への供養として、死とか愛とか人生とか記憶とか喪失感とか尾崎豊と
かについて考えること、というのは悪くないと思う。われわれには幸いまだ時間があるようなので、ゆっくり考えていきましょう。

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ハナイ (2004-02-27 08:55)

ハナイです。コメントありがとうございます。「墓標や祭祀というものはリマインダとして価値がある」というのは全く同感です。後のほうのことも僕がここ数日考えていたことと同じようなことで、きっとそれは人が生きる、ということがそもそもネットワークを形成しているということとなのだと思いました。論理的に、というよりも直感で。「ネットワークと花畑」という言葉を思いついたんですが、これについては自分のところでおいおい考えたうえに書こうと思います。では。

あし (2004-02-27 09:43)

なるほど、ネットワークという言葉はしっくりきます。